心理学用語

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アスペルガー障害

発達障害、すなわち精神遅滞や、学習や言語や運動能力に障害があるものを指します。原因は脳に生まれつき何かしらの障害を抱えているから、と考えられています。この発達障害は、現在の医療技術では治療は困難であり、残酷な言い方をすれば、一生続きます。やれることと言えば、少しでも社会で適応した生活ができるように、リハビリ(身体的なものだけでなく、人との関係づくりの訓練など)や行動療法、教育的な治療(療育と言います)を行うことです。それでもやはり、生活していくには周囲の支援が必要になってくると言えるでしょう。ここで述べるアスペルガー障害は、この発達障害の一つです。よく聞くと思われる自閉症との違いから述べていきたいと思います。

自閉症は、ドラマや漫画などでよく取り上げられていますが(近年、このアスペルガー障害も、問題とされてきたのかメディアで取り上げられているように思います)、この障害は三つの症状から特徴づけられます。
一つは社会性の障害。要するにKYなのです。人の心を顔色や表情などから推測して、気を遣った態度や言葉遣いをしたりすることができません。
二つめはコミュニケーションの障害。文字通り、言葉を発することができなかったりします。また、人とのまともな会話や交流が障害されます。
三つめは、想像力の障害。これが一般的なイメージかもしれませんが、変化などに対応ができません。常同的とも言いますが、要するに「こだわり」です。行動だけでなく、興味や関心もこだわりが強いです。同じ道しか歩かない、同じものしか食べない、同じ遊びしかしない、人や周りの景色が変わると混乱してしまう、などといったことが挙げられます(これらの特徴を述べましたが、障害というのは百人いれば百通りあって、重症度などによりまったく違ってきます。「自閉症、アスペルガー障害はこういう人」とか、逆に「○○が見られないから、自閉症じゃない」などとは、一口には言えません)。
そして、アスペルガー障害というのは、この自閉症の変則型のようなものです。特徴は、上の三つの症状のうち、コミュニケーションの障害がないのがアスペルガー障害です。

傍目から見ると普通に話せているので、何かしらの障害があるのではとなかなか思われにくいのです。極端な興味や関心の幅の狭さ(アスペルガーの人は、いわゆる○○博士のような人です。漢字や電車に異様に詳しかったり、異常な記憶力をもっていたり……など)も、障害レベルでなくても普通に持っている人もいるにはいますので、余計に思われにくいのです。それが何を意味するかと言うと、人の気持ちが分からない、KYな言動を取る、といったことで、周囲から冷たい目で見られるようになったり、まともな社会活動をすることができなかったりしたときに「障害だから仕方ないか」と思われないのです。ただ単に面倒な人だと思われてしまい、そうした周囲とのうまくいかない交流に本人も苦痛を感じだすようになるのです。今まで普通に生活していたのに、社会に出た瞬間まともに生活できなくなって、診察を受けるとアスペルガー障害だと診断されることも稀ではありません。

インテーク面接

「初回面接」「受理面接」と訳されるもので、どういった相談内容で来談されたとしても、このインテーク面接を必ず最初に行います。
インテーク面接の目的、それは情報収集と治療契約を交わすことです。
情報収集というのは、例えば「どういった相談で来られたか」「いつごろからそれについて悩み、考えているか」ということを訊ねていきます。さらに、「学歴や職歴」「家族にはどのような人がいるか、またはいたか」など、自身の歩んできた人生についても伺っていきます。また、それだけでなく「不眠/食欲がない」「病院に通っている/そこでなにか薬を出してもらっている」といったことについても話してもらいます。もちろん、訊ねることは来談される方によって変わってくるので、そこはカウンセラーの判断によります。
インテーク面接の結果次第で、カウンセリング――すなわち症状の改善であったり、問題解決の援助――を行っていくかを決定します。こうした情報収集のために、インテーク面接(すなわち初回の面接)は通常よりも30分長い、90分間行います。

カウンセリングというのは万能ではありません。どんな悩みも魔法のように解決、というわけにはいきません。正直、身体の調子が悪いなどあれば、病院など医療機関に行った方が良いということは多く、場合によっては下手にカウンセリングを続けて悪化する、ということもあったりします。そうならないためにも、カウンセリングで援助できるのかどうか、インテーク面接で得た情報をもとに判断するわけです。そして、その結果次第で次回からカウンセリングを続けて行くということを、カウンセラーと来談者で同意をし、契約を交わします。こうして初めて、カウンセリングは始まるのです。

ウィニコット

英国(イギリス)の小児科医であり、フロイトの創始した精神分析(は行参照)を継承する精神分析家と呼ばれる人物です。彼は、フロイトの弟子の弟子です(厳密には、フロイトの教えを発展させた人物の考えを、さらに彼は自分なりの理論にしたという感じです)。

彼の理論の代表的なものの一つ、それが「移行対象」とよばれるものです。移行対象というのは、一般的な言葉で言う「安心毛布」のこと。子どもの頃を想像してください。だれでも夜眠るときとかに、それが無いと寝られないといったような、ぬいぐるみや毛布、枕などがあったと思います(世界的な漫画作品であるスヌーピーに出てくるキャラクター、ライナスくんがいつも引きずっている、あれです)。それらをウィニコットは移行対象と名付けました。
この移行対象は、母親から自立するためのものだとウィニコットは言いました。子ども(というより赤ん坊)は最初、母親にべったりくっついて、依存的です。しかし、徐々に母親にずっとくっついているわけでなく、一人で遊んだりできるようになっていきます。ただし、急に母親から自立するなんてことはなく、いわば、依存もしてないし自立もしていない「中間」が生じるのです。この「中間」にあって、依存と自立を橋渡ししてくれるものが、ウィニコットのいう移行対象です。
母親から自立しようとするが、いざしようとすると子どもには不安が生じます。その時に移行対象があれば、その不安は軽減され、スムーズに自立につながっていくと、ウィニコットは言うのです。子どものころ、「ぬいぐるみをずっとつかんで離さない、大丈夫だろうか」と心配する母親がいたかもしれませんが、それは全くの逆です。そうした移行対象を持った子ほど、母親からしっかりと自立できるのです。

そしてさらに、母親からの自立を促すものが、母親の「抱っこ」と言われています。子どもは母親に抱っこされることで、最も安心感を覚えるのです。十分に甘えたいときに甘え、抱っこしてもらい、愛情をもらい(いわば、エネルギーの充填です)、「自分は母親に愛されている」「自分からくっついていかなくても母親は自分をしっかりと見てくれている」という信頼感を得て、さらに移行対象による橋渡しによって、子どもは自立していけるのです。逆に、子どもは抱っこされないと不安で仕方なく、「愛してくれていない」と信頼感も何も生まれません(むしろ、「母親が自分を愛してくれてない」と不信感を持つでしょう)。自立どころか母親を異常に求めるようになり、ひどく依存するようになります。子どもの頃にそんな性質が身に着いた子どもが将来どうなるか、想像は難しくないでしょう。周囲の人間や薬への病的な依存性質を持つ、自立ができない人になる、ということです。
「さっさと自立をさせようと、子どもを甘やかさず放っておく」「ぬいぐるみなんて女々しいものをずっと持ち歩くなんて将来が心配」なんてことをしたり考えたりする母親はいると思います。しかし、ウィニコットの理論からいえば、それらはナンセンスも甚だしいのです。

最後に、この理屈(理論)はカウンセリングの援助にも当然用いられます。カウンセリングというのは、いわば来談者の自立援助です。自立するのは、本人の力です。それを活かすため、母親的な役割をカウンセラーはとるのです。もちろん、抱っこしたりはしませんけど、会話などを通し、カウンセリングの場で自立のためのエネルギー充填をしていきます。そうして、「もうカウンセラーさんなんか必要ない」と笑顔で言えるくらいになって、自立していけるようになってもらうのです。

エンカウンターグループ

複数人のグループ(大体10人ぐらいから)で行われる活動です。このエンカウンターグループ、治療や援助を行うものではありません。症状や悩みを持った人に行うこともあるにはあるのですが、症状を持たない人がさらなる心理的な成長や対人関係の改善などを目指して行われるものです。

エンカウンターというのは、「出会い」という意味。「何と出会うのか」というと、その活動で親密な対人関係を形成していく、他者(参加者)とです。しかしそれだけでなく、他者と出会っていく中で、自分自身とも「出会う」のです。エンカウンターにはそうした意味も込められているのです。

エンカウンターグループは、大きく二つに分かれます。ベーシック(非構成的)エンカウンターグループと、構成的グループエンカウンターグループです。前述したように、二つとも健康な人がさらなる成長を目指す、という点は同じですが以下の違いがあります。

まずベーシックエンカウンターグループですが「こうしたことをする」、とここで明確に説明はできません。なぜならば、行われることは、参加者が「今」「この場所で」やりたいことを自発的に提案して行っていくからです。つまり、ベーシックエンカウンターグループには定型のものやプログラムのようなものはなく、活動を促す専門家も存在しません。厳密に言うと、いわゆるリーダーのような指導的立場に立つ人でなく、「ファシリテータ」と呼ばれる人が、グループの雰囲気を各々が成長できるようなものになるようにこころ配りを行う程度で、そこには技法もありません(もちろん、根底には参加者がスムーズに行動できるようになるための、専門的技能が備わっていなければなりませんが)。ファシリテータは、参加している人たちが自由に自分を開示して創造的な活動を行うまで待つのです。自由に自分を開示するというのはかなり難しく、どうしても参加者は最初指示を待ってしまいます。けれど、それを乗り越えて活動を開始できるようになると、参加者たちは自分たちのありように気づき、戸惑いながらも他者と対峙し、自身の対人関係を振り返って成長が促進されていく、というのがベーシックエンカウンターグループなのです。

対して構成的グループエンカウンターは、心理的な成長や自身のあり方を見つけ出すために、教室のようなひとつの空間の中で、グループでエクササイズ(作業や演習、ゲームなどをまとめての表現です)を行います。「相手への物事の頼み方の練習」「相手への角の立たない断り方」など、やることやプログラムががっちり組まれており、活動を進行・運営するリーダーも存在します(しかも、プログラムが決まっているので、専門的な知識や理論を持っていなくてもリーダーとなれます)。リーダーには、教室で一斉授業を行えるリーダーシップ―どちらかというとカウンセラーというよりは教師よりの技能―が求められるのです。

どちらがいい、ということはありません。それぞれが、それぞれにない効果や特徴を有しており、いわば弱点を補完し合っていると言えるのです。

AN/BN

ANは「Anorexia Nervosa」、BNは「Bulimia Nervosa」のことです。日本語では、前者は「神経性無食欲症」であり、後者は「神経性大食症」と訳されます。大層な名前ですが、要するに「拒食症」と「過食症」のことです。ただ、専門用語では、拒食症は「神経性無食欲症―AN」であり、過食症は「神経性大食症―BN」なのです。

神経性無食欲症は、極端にやせている、または歪んだボディイメージを持っているということを特徴とします。やせたい、という思いや、自分は醜く太っているなどの理由から食事量を極端に減らしたり、食事を拒否したりします。大食を伴わない制限型と、大量に食べてはすぐに吐いたり下剤を飲むなどする、むちゃ食い・排出型とに分けられます。

拒食症の人たちのボディイメージは、周囲から見ると明らかに不合理なものであったりします。つまり、どれだけやせていてもどれだけ綺麗でも、「まだまだやせないと」とか「綺麗にならないと」とかいった自分に対して誤ったイメージを持っているのです。ゆえに、この症状は痩せることで治ったり落ち着くわけではありません。自分に対する歪んだ考えや価値観を、カウンセリングで直していくことが重要となります。

神経性大食症は、発作的に食べ物を大量に摂取する(大食発作)というのが主な症状です。週2回以上の大食発作が3か月続き、しかも自分で制御できない時に、この症状と診断されます。しかも、体重が増加するのを防ごうと不適切な行動を取ったりするというのも特徴で、その行動によって二つの型に分けられます。下剤を用いたり、無理矢理吐く、といった排出型と、過剰に運動したり大量に食べた後でしばらく絶食するといった非排出型とがあります。

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か

解離性障害

解離性障害は、解離状態を示す障害のことです。この解離というのは何かと言うと、「意識や記憶の連続性や統合性が失われた状態」と定義されます。

例を挙げると、記憶喪失はこの解離性障害にあたります。「朝起きて、着替えて、ご飯を食べて、仕事に出て、昼ご飯を同僚と食べて……」といった具合に、人の記憶というものには一貫性や連続性があります。解離というのは、この一貫性や連続性が欠けてしまった状態を言います。「朝ごはんを食べたこと」や「朝食べたもの」を忘れてしまうのです。こうした物忘れのことを専門用語では「健忘」と言い、解離によって生じる記憶喪失を「解離性健忘」と言います。

解離性障害には他にもいくつか種類があります。前述したような、ショッキングな出来事を体験したり脳に損傷を受けたりなどして、損傷を受ける前後の記憶を思い出せない「健忘」。家庭や職場などから突然失踪し、放浪し、自分の過去をまるで思い出せずに新たな生活を別の場所で送る「遁走」。そして、複数の人格が交代して表れ、まるで別人のように振る舞う「同一性障害」――多重人格と一般に言われるもので、いわゆる自分という意識の連続体が途切れてしまい、別の人格が表れている状態です。ほかにも、自分が自分でないように思考や感覚が、一枚フィルターがかかったように、現実味がなくなってしまう状態になる「離人症」などがあります。

解離の原因は、生物学的なものか、心理的なものか、に分けられます。簡単に言うと、脳が半分寝ていて夜中にトイレに行ったことを忘れるといったことが生物学的な解離で、退屈な話を聞いているときに白昼夢を見て、実際に話してもらっている内容が頭に入ってこない状態などは心理的な解離です。この程度なら誰にでも起こりうる健康な解離なのですが、脳に損傷を受け、脳振盪を起こし前後のことが思い出せないといった(生物学的)解離や、ショッキングな出来事が起きてその事実から目をそらすためにそのことに関する前後の記憶を忘れてしまうといった(心理的)解離は、病的なものと言え、日常生活に不自由が生じる程になれば、専門家の援助や治療を受けることが必要になります。

強迫性障害

強迫性障害には、二つの特徴が挙げられます。「強迫観念」と「強迫行為」です。
「強迫観念」は不合理であると分かっているのに、気になって頭から離れなくなってしまう考えのことです。そして「強迫行為」とは、強迫観念を払拭するためにとる行動のこと。例えば、車を運転している際にゴトッという音がして「誰かを轢いてしまったんじゃないか」と思う――これが「強迫観念」――。すると、もうその考えが頭の片隅にこびりついて、車を停車させて周囲に人が倒れていないかなどを確認し続ける――これが「強迫行為」にあたります――。以上のように、ちょっとした音がするだけで車を停めてばかりいるせいで、まともに買い物にもいけない、仕事に遅刻するなど、日常生活や社会人として働くことができないほどになると、強迫性障害であると考えられます。

誰にでも「電車の吊り革を触ると、汚い気がして後で何度も手を洗う」「家を出た後で、鍵をしめたか、ガスの元栓をしめたか、気になって何度も引き返す」といったところはあるかもしれません。なので、即、障害であると断言はしませんし、できません。あくまでも、これがあまりにもひどく日常生活に支障を来しているようなら、強迫性障害だと考えられるのです(PTSDの項でも述べているように、「障害」と診断されるのは、その症状があるだけではなく、あくまでその人が日常生活を生きるのに支障を来している場合に言うのです)。

グループセラピー

セラピー、すなわち心理療法というのは「1対1」というイメージがあると思います。しかし、決して1対1でなければならないというわけではありません。むしろ、グループ―すなわち複数人の集団―で行うことによってこそ得られる独自のセラピー効果もあるのです。

例えば、グループで行うことで他者の言動を見ることができ、そこから自分のことを振り返ったり、見直したりできます。他にも、「あ、この人も同じような悩みを持ってるんだ」といったように、自分だけが苦しんでいる特異な存在でないことに気づいて、それだけで気が楽になります。単純に人との関係づくりの能力や自己表現力がグループで話したり聞いたりすることを通して学ぶことだってできます。また、集団というものがもつ機能に集団力動とよばれる、いわば相互作用のようなものがあります。グループをまとめてくれる人や、グループの成員同士で活動していくことで、支え支えられといったように、お互いに作用しあうのです。

さらに、考えてみてください。日常生活というのは「1対1」といった二者関係ばかりでしょうか。そうではなく、三者以上と関係を持つ場面が多いものです。つまり、グループセラピーというのは、1対1の個人療法よりも、より日常的な状況に近い場を作ることができるのです。それはイコール、グループセラピーで得た気づきや学びを、より日常生活で用いやすくなるのです。これもまた、グループセラピーのメリットのひとつなのです。

グループセラピーには様々な種類があります。その内のひとつに劇を演じていく心理劇というものがあります。これは一通りの枠は存在しますが、その場その場で、即興で劇を演じていくものです。演じる人物の無意識的な訴えをファシリテータや補助自我と呼ばれる人たち(専門家もグループに混ざってセラピーを行うのですが、その時、セラピストといった呼び方でなく「ファシリテータ」といった呼び方をします――あ行、エンカウンターグループ参照)が深めていき、グループでのセラピー効果を得るのです。この心理劇は通常のグループセラピーとさらに違い、言語だけでなく行動を伴うというところに特徴があります。

ちなみに、エンカウンターグループは、このグループセラピーのひとつです(エンカウンターグループについては、その項を参照)。

行動療法

悩みやこころの病気を改善する心理療法は数多くあり、行動療法はその一つです。教科書の言葉を借りると「学習を主な手段にした心理療法」とあります。
ここで言う「学習」というのは一般に認識されているものとは違います。それを説明する例として、有名な「パブロフの犬」という実験があります。

犬に食べ物を見せるとよだれが出る。ベルの音だけでは、もちろんよだれは出ない。それならもし、「食べ物を差し出すと同時に、ベルの音を聞かせる」とどうなるか。最初は、犬はうるさそうな顔をしながらよだれをたらし、食べ物を口にするだけ。しかし何度もそれを繰り返すと、犬は「ベルの音を聞いただけでよだれを出す」ようになっていきます。

これが心理学で言う「学習」です。つまり「ベルの音が聞こえた時に食べ物が出る」ということを、犬は学んだわけです。

対人関係上の問題や生活のしにくさなどがどうして起きるのか、それをこの「学習」で考えることができます。簡単な例になりますが、「人に挨拶をしたのに、無視されたりバカにされたことがある」という人は、挨拶するとまたバカにされたり無視されたりするかもしれないと「学習」してしまい、人に挨拶をしたりすることができなくなると考えられます。行動療法は、こうした「よろしくない学習」を「よりよい学習」になるように援助するものです。
(上記の例ならば、カウンセリング内で役割をふりわけ、カウンセラーに対して挨拶の練習をする。また、次回カウンセリングまでに何人かに挨拶をしてみて、どのような反応であったかをカウンセラーに報告し、誰にでも無視されているわけではないことを一緒に気づき、「学習」し直していく、という方法をとる。こうして対人関係に困難さを抱える人の「考え方の特徴」を「学習」という観点から改善していく。)

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さ

ソーシャルスキルトレーニング

「社会的技能訓練」と訳されるものです。英語の頭文字をとって「SST」と略して言われることも多いです。対人関係において、適切なコミュニケーション力を獲得していくための訓練プログラムのようなものです。具体的には、モデリングやロールプレイにより、対人場面における他者との交流の能力や、自分の感情をコントロールする方法を習得していくことを目指していきます。

人前に出るのが苦手な人や、引っ込み思案な人、そういった人たちに用いられるトレーニングです。

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た

多重人格障害

解離性障害の一種であり、正式には解離性同一性障害と呼ばれます。
解離をした際に、まったくの別人格が表れる障害です(解離については、解離性障害の項を参照してください)。

この障害は、幼少時の虐待などが原因となることが多いです。こんな症例があります。幼いころに性的な虐待を受けた子がいたとします(そんな時、あまりに衝撃的な仕打ちを受けた事で、それを忘れようとするかもしれません)。そして、周囲の人に相談します。しかし、周囲は「あの人があなたにそんなことをするわけがない」と言うかもしれません。もちろん、虐待を受けた本人が「○○さんが私にこんなことするわけない」「あんなにいつも優しいのに、こんなことしてくるわけがない」といったように考えます。あまりにも直視しがたい、自分が性的な虐待や悪戯をされてしまったという現実から目をそらすために、その子は別の人格を作り出すのです。「こんなことをされたのは(されているのは)私じゃない。別の子だ」といった具合にです。そうしたもう一つの人格(副人格)が成長してからも登場し続け、本当の人格(主人格)を差し置いて行動、思考などを行うのです。これが、解離性同一性障害発症メカニズムだと考えられています。

DSM-Ⅳ-TR

アメリカ精神医学会、というところがつくった精神疾患のマニュアルのことです。「○○のような症状」が見られる場合に、それが何という疾患なのかを判断するための診断基準が記載されています。例えば、うつ病の場合、「寂しさ、憂うつ、孤独感が見られる」「興味や喜びを感じていない」「罪責感を覚えている」「自殺念慮がある」「思考や集中力が減退している」「疲れやすい」「焦燥感や不安が強く、じっとできなくなる。または動けなくなる」などの基準があり、「この中の五つが二週間以上見られるとうつ病にあてはまる」といったような基準も定められています。このように、脳の損傷があるとかストレスによるなどといった、原因から診断をするのではなく、客観的に、個人の状態像を見て診断を行うという考え方に基づいてDSMは作られています。(1952年に出されてから、今まで改訂を重ねてきており、DSM-Ⅳ-TRは最新版(第Ⅴ版め)です。ちなみに数年後にはDSM-Ⅴ(第Ⅵ版め)が出版されることになっています)。

投影

人は、受け入れたくない気持ちがあると、その気持ちを相手が持っているものにしてしまう傾向があります。

例えば、嫌な上司がいたとします。人は「嫌な上司だな」という嫌悪感を心に抱きます。しかし、人を嫌うというのは気分のいいものではありません。自分の中に人を嫌うという気持ちを持っていたくないので「あの上司は自分のことを嫌っている」と、相手の方がそうした気持ちを持っていると無意識にしてしまうわけです。「あの人、私のこと嫌ってる」「あの人、私のこと分かってくれてない」というのは、もしかしたら「(自分自身が)相手のことを嫌っている」「(自分自身が)相手の事を分かっていない」ということなのかもしれません。
「あいつ浮気している」と言ったように浮気を疑う人ほど、実際に浮気をしているという話はよく聞くと思います。浮気を自分がしているからこそ、相手の方がしていると投影してしまうわけです。これは投影の良い例だと言えます。

統合失調症

うつ病と並ぶ、重度の心の病――精神病――がここで説明する統合失調症(二つは、二大精神病とまとめて呼ばれます)です。統合失調症には特徴的なふたつの症状があります。それが陽性症状と陰性症状です。陽性症状とは、妄想(第三者が助言するだけでは否定することができない固い信念を持つ)や幻覚(ないものが見える)、どこか要領のつかめない思考や話し言葉、などを言います。陰性症状というのは、無感情・無感動となったり、意欲や自発性が低下したり、ひきこもったり、といったものが挙げられます。

他にも自閉的、被害妄想、表情に固さや冷たさが見られる、誰かに自分の思考をのぞかれている・操られているといった体験、といった特徴もあります。しかも統合失調症の方は、ほとんど病識がありません。自分が病気とは思わないのです。

統合失調症は、示す症状によっていくつかの種類に分けられます。
 思春期に発病し、まとまりのない行動や会話をとったり、感情にまるで起伏がなくなるといった陰性症状を主に呈するのが、解体型(破瓜型とも)統合失調症です(ただ、幻覚や妄想も示さないわけではありません)。

次に、二十代前後で発症し、まるで固まったように動かなくなったりするといった症状(強硬症とかカタレプシーとか言います。極端なものは蝋屈症と呼ばれます)を呈する緊張病型統合失調症というものがあります。

そして、三十代くらいで発症する、幻覚や妄想が主症状なのですが、人格は比較的に良好に保たれる妄想型統合失調症があります。

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な

ナラティブセラピー

ナラティブ、というのは物語と訳されます。
医学的な治療や心理学的援助のアプローチの仕方は、二つに分けることができます。
ひとつは、統計的に検証された十分なデータ――たとえば、「この疾患には薬Aの方が、薬Bや心理療法Cよりも有効だ」「脳のこの位置が悪いとこういう症状が出るのだ」「この薬はこういう効果があって、こうした副作用が出る可能性が高い」という科学的・生物学的な実験・研究結果――といった客観的なものに基づいて、行うアプローチです。

もうひとつは、ひと一人一人と出会う中で、客観的というよりは個人がそれぞれ持つ世界や物語といった主観的なものを対話によってひも解いていき、その人個人を理解してアプローチしていくというものです。薬だけで病を治していくことがホントにできるのか、患者一人一人にそれぞれ見合った治療法というものがあって、それを見つけ出すことが(特に心の病には)必要なのではないか、という考えを体現したものと言えるでしょう。

どちらがいいということはありません。やはり、統計的に実証されたものが絶対であるし、すべてに共通して用いることができる(普遍的とでも言うのでしょうか)ということで、前者を重視する人や学派はあります。対して後者の、客観的で絶対的な世界というのは存在せず「人と人が社会的に相互に交流することで世界は社会的に構成される」という考え方に基づくアプローチ法なら、前者だと軽視されがちな一人一人の人間の個性を、しっかりと捉えることができるということで、こちらを用いる人や学派も増えています。

ナラティブセラピーは、「セラピー(療法)」と言いますが、心理療法の種類のひとつを指すものでは、厳密にはありません。前述した後者の考え方に基づく心理学的な技法や理論全般のことを指します。その人の「世界」、社会的な人と人との交流によって構成されたその人の「物語」、誰にでも共通の客観的なものでなく主観的なものこそが我々が生きている現実だ、といった考え方や視点を持って、対話・交流・援助を行っていくのです。悩みや苦しみを抱えている人というのは、どこか固まった考え方――物語(ドミナント・ストーリー、と言います)を持っています。それをカウンセリングで、固まった単一な視点でなく、もっと広い視野の建設的で肯定的な考え方――物語(オルタナティブ・ストーリーと言います)を持てるように修正していくのです。

認知行動療法

心理療法にもブームがあります。そして、この認知行動療法は、現在ブームの心理療法といっていいでしょう。心理療法の中で唯一、保険がきくものでもあります。どんな療法かというと、「認知療法」と「行動療法」とをくっつけたものです。認知療法というのは、自分への否定的な見方、世の中に対する歪んだ見方を改善する心理療法のことです。

人には、独自の考え方――価値観とも言われます――があります。その価値観のせいで、ネガティブな思考を思い浮かべるようになるのです。一人に好かれないとみんなから好かれない、なんて極端な価値観を持つ人は、失恋をした時に「自分はなにをやってもだめだ」「だれも自分を好きになってくれはしない」と結論付けてしまうのです。人それぞれに独自の価値観を持つのはいいでしょうけど、そのせいで普段ネガティブになったり、周囲に不穏な空気を撒き散らしたり、人とうまく付き合えなくなったりして、自分が困った挙句うつ病になる、なんてこともあります。ここで誤解しないでほしいのが、認知療法では、「あなたの考えは合理的でない、おかしい」なんて反論をしません。カウンセリングの場で話し合って、その否定的な考え方が本当に正しいのかを「一緒」に「検討」するのが認知療法です。どういったときにネガティブな考えが浮かぶのか、そのネガティブな考え方が出るのはその人がどんな価値観をもっているためなのかを一緒に探していきます。その上で、ネガティブな考えが浮かばないように気持ちをそらしたりするトレーニングなどを踏まえ、考え方を修正・改善するのです。(行動療法については、か行を参照してください。

認知行動療法は行動療法で用いる技法と、認知療法で用いる技法を合わせて、日常生活や対人関係上の問題や悩みを改善していくことを目指します。

行動療法の技法は、
①実際に行動するためのスケジュールを作成して、それに則って実際に行動をしてみる、
②ソーシャルスキルトレーニングを用いて、対人場面において自分の意見の主張の仕方を学ぶ、
③苦手な状況に実際に直面して、いざしてみると案外平気であるということを認識する(暴露法といいます)、
④簡単なことから段階を踏んで、行動していく(実際にできないことを、急にやれと言われても行動することがしんどい場合に用います)
といったものが挙げられます。

認知療法の技法は、
①否定的な考えを肯定的な考えにしていく、
②すべて自分が悪い、という原因のつけかたをしないように促す、
③「自分は○○している」「次は××してみよう」「そして△△してみる」と、自分が行動する度に口にしていくことで、自分を客観的に見ていく、
④そうした考え方をすることによる、良い面と悪い面を想定し、検討する
といったものが挙げられます。

挙げた技法はあくまで一部ですし、人によってどの技法を用いるのが最適かを決め、療法を進めていきます。この両技法を合わせ、困難さをもたらすほど通常からの逸脱している思考や感情、行動や物事の捉え方を改善していきます。

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は

パーソナリティ障害

パーソナリティ障害は、行動や考え方などが、その人が生活している文化や社会において著しく偏っている状態です。これと言った症状はありません。言うならば、「パーソナリティ」そのものが障害されているのです。
(*精神疾患の診断基準、DSMの最新版においても「パーソナリティ障害」と記されていますが、元は「人格障害」とされていました。しかし、人格という言葉から来る偏見を避けるために、現在、パーソナリティ障害と名称が変更されています。)

・以下の四つのうち、二つ以上認められた場合に、診断されます。
1.認知面(自分や相手、または出来事を認識する能力や認識の仕方)が偏っている。
2.感情面(感情反応の強さ、適切さ)の偏りや不安定さがある。
3.対人関係の仕方に障害がある。
4.衝動の制御能力に障害がある。

・パーソナリティ障害には、他にも以下の特徴があった場合に診断されます。
―その障害(偏り)ゆえに、生活する上でも仕事をする上でも、著しい苦痛や困難をもたらしている。
―長期間続いており、始まりは十代後半から二十代前半頃までさかのぼることができる(小中学生で偏った行動があったとしても、それが障害なのかそれともただ単に幼さゆえのものなのかはわかりません。パーソナリティが出来上がる前―16,7歳頃―にパーソナリティ障害と診断するには若干無理がある、ということです)。
―身体の病気ゆえでなく、薬物や向精神薬を乱用することによるものでもない。

・DSMにおいて、パーソナリティ障害は10に分類されている。
―妄想性、統合失調型、スキゾイド(シゾイド)の3つはA群。
―反社会性、境界性、演技性、自己愛性の4つはB群。
―依存性、回避性、強迫性の3つはC群。
 A群は、奇妙で風変りである。空想や妄想を持ち、精神病的な思考に傾いている。
 B群は、演技的であり、感情表現が激しく、そして移ろいやすい。
 C群は、不安や恐怖を著しく感じやすい。

 以下、ABCの順でそれぞれの特徴を述べていく。

―A群―
●妄想性パーソナリティ障害
 不合理としかいえない考え(妄想)に支配され、自分または他者との関係において障害が生じる。偏屈であり、他者の誤りを見つけ出すことに執心する。常に敵意に満ち、苛立つ人。好訴者などが当てはまります。
十分な根拠もないのに、他者が自分を利用する、危害を加える、裏切ろうとしている、と疑いを持ち、まともな対人関係がとれない。相手の悪意のない言葉にも、自分をけなしている、脅しているという意味が隠されていると読み取ります。 相手を信じないので、情報が自分に不利に働くという根拠な恐れを抱く。ゆえに、相手に秘密を打ち明けません。
配偶者に対して、不貞といったあまりにも道理に反した疑いを抱くといった特徴もあります。また、侮辱されたり、傷つけられたりした場合、その恨みを抱き続け、相手を許さない執念深さが見られることもあります。  自分の行動に責任をとることを拒み、その責任を他者に押し付ける傾向もあります。

 

●統合失調型パーソナリティ障害
 人との親密な関係を作れず、気楽なやりとりをできなくなるという特徴を有する。また、人との関係に不合理な疑いを抱く。感情が平板化しており、その場にそぐわない感情をだすなど、対人関係に明らかな欠陥があります。
以上の特徴を見ると、妄想性やスキゾイドパーソナリティ障害とどう違うのか、と思われるかもしれない。なので、統合失調型の具体的な特徴を挙げる。 行動や思考や感情、話し方が明らかに風変わり――奇矯さが目立つ(スキゾイドにはこうした明らかな外観の奇矯さや風変りなところはない)。
そして、統合失調型に最も特徴的な症状は「魔術的思考」の存在である。他者の行動を制御できる、という考えを持つ。迷信深く、正常とは外れた現象にとらわれる。例を挙げれば、自分の配偶者が犬の散歩に行こうとしている。この時、統合失調型パーソナリティ障害者の魔術的思考が働く。「私がついさっき、犬の散歩に行けと念じたから、いまそうしているんだ」と思い込むのです。
*ちなみによく聞く、統合失調症という疾患とどう違うのか。統合失調症は現実検討能力が完全に欠如していますが、統合失調型パーソナリティ障害はそうではありません(これはパーソナリティ障害すべてに言えることなのですが)。
統合失調症患者が殺人を犯した場合、現実検討が出来ない=計画を立てられない、となるので精神鑑定が行われれば、刑事責任を問われません。
しかし、パーソナリティ障害の人の場合は考え方に多少の偏りがありますが、現実検討に障害はありません。つまり、計画を立てられるとして刑事責任は問われます。「殺すなら誰でも良かった。将来ある子どもよりも先の短い老人を殺した方がいいと思って殺した」という発言はパーソナリティ障害者特有の発言です。これは偏ってはいますがそれだけです。計画を立てられている、と考えられ罪に問われます。

●スキゾイドパーソナリティ障害
 対人関係に無関心であり、感情の表出が明らかにない。他者から見れば、人と接触しようとせず、孤立しがちで、よそよそしい雰囲気の人物に見えます。
 ほとんどいつも、孤立した行動を選択する傾向にある。他者と親密な関係を持とうとせず、持ちたいとも思わず、それを楽しいとも思わない。
 他者との性体験を持つことにも興味を持たず、喜びを感じるような活動がまるでない。周囲からの賞賛にも批判にも無関心。感情の希薄さ、冷たさ、平板さがある。  学業に対しても打ち込むことがないので、学業不振で発見されることがあります。

―B群―
●反社会性パーソナリティ障害
 特徴を挙げれば、法律にかなった、社会的規範に沿った行動というものがまるでとれないという一言に尽きるでしょう。
 極端に無責任であり、将来の計画を立てられず、衝動的な行動を取る。例えば、安定した仕事を続けず、経済的な義務を果たそうともしない。
苛立たしく攻撃的な面があり―自分や誰かを守るためでなく―配偶者や子供に暴力的な行為に及ぶ。自分自身や他者のことをまるで考えず、危険で無謀な行為に及ぶ、といったものも挙げられます。
 個人的な利益や快楽(金銭や性交渉、権力)を手に入れるために、嘘をついたり、人を操作しようとする。良心の呵責が欠如している。他者をだます(詐欺行為)、困らせる、いじめるといったことを平然と行い、苦しむ他者に無関心で、自身の行動を正当化する。盗みや非合法な仕事に就く、人の所有物や他者そのものへの暴力行為を働くといった行動も見られる。
 これら、逮捕に直結する行動をいくつか繰り返すのが、反社会性パーソナリティ障害の特徴です。
*ただし、この障害を診断される時には他のパーソナリティ障害にない条件があります。それが、15歳以前に行為障害(素行障害)を発症しているというものです。 行為障害は、他者の基本的権利や年齢に応じて要求される社会的規範や規則を守らないという特有の行動のことを指します。具体的には「人や動物への攻撃性」「所有物の破壊」「嘘をつくことや窃盗を働く」「重大な規則違反」のどれか一つあるだけで、行為障害と診断される。

 

●境界性パーソナリティ障害
 この障害には、見捨てられることの不安とそれを避けようとし、なりふり構わない行動をとるという特徴が見られます。一人でいることに耐えられず、他の人と一緒にいてもらいたい、という欲求が強いのです。
また、他者に対して「理想化」と「無価値化(こき下し、などとも呼ばれます)」を揺れ動く、というのも境界性パーソナリティ障害の特徴です。すなわち人に対する評価が極端なのです。例えば、ある時には医師を「あの人こそ私を治せる人」と、まるで神様かのように信頼し、信奉します。しかし、少しでも気に障るようなことを言われてしまったり、相手にされなくなったりするだけで、「あんな人、もう信用できない。なんなのあのやぶ医者」と怒りの感情を思い切りその相手にぶつけます。そうした不安定かつ激しい対人関係の様式をとるのです。また、「相手をしてくれないから」と自殺するそぶりを示したり、脅しをかけるなどして、相手をコントロールしようともします。
他の特徴として、慢性的な空虚感を覚えてもおり、自己を無闇に傷つける行動を衝動的にとる傾向にもあります。浪費、過剰な性行為、物質の乱用やむちゃ食いなどで空虚感を埋めようとします。感情表現が激しく、不快な気分、いらいら、不安などへと移ろいやすく、不安定。怒りの制御ができずに、しばしばかんしゃくを起こし、いつも怒って、取っ組み合いのケンカになることもあります。
 身体的および性的虐待、無視、敵対的な葛藤、幼少時の親の死亡や離別などが小児期に見られていることが多く、解離性症状が見られることもあります。 以上のように、対人関係や自己像、感情の不安定性や著しい衝動性に特徴づけられるのがこの障害です。ちなみに、明らかに女性が多いです(約75%)。
*ところで、いくつかあるパーソナリティ障害ですが、名前を見れば大体どれがどのようなものなのか見当がつくと思います。「妄想性」は妄想を見る、「反社会性」は社会に反する行動を示す、と言った具合に。それでは、この境界性の「境界」とは何なのか。その答えとして、心の病の水準を説明します。
○○恐怖や○○強迫といった、理性で分かっているのにコントロールがきかないといったものは神経症水準と言います。妄想を見る、幻覚に苛まれる、本人はおかしいという自覚がないにもかかわらず、周りから見れば明らかな症状が見られるのは精神病水準と呼ばれます。「境界」というのは、神経症水準よりは重く精神病水準よりは軽い、「間」の意味でつけられたものです。正式には境界例水準と言い、専門家の間では「ボーダー」などと略され呼ばれることもあります。感情が明らかに不安定、空虚感や衝動性からの突発的な自傷行為、見捨てられ不安のひどさ、それらによりまともな対人関係をとれない――神経症や精神病のようにこれといった症状がなく、パーソナリティそのものが症状となっているというのが境界例であり、イコールでパーソナリティ障害を指す場合もあります。 パーソナリティ障害は様々な特徴から10に分類されていますが、この境界性パーソナリティ障害が、パーソナリティ障害の代表的なものであると言えるかもしれません。

●演技性パーソナリティ障害
 過度な情緒性と人の注意を引こうとする。自己中心的であり、わがまま。
 自分が注目の的になっていない状況では楽しくなく、自分への関心を引くために絶えず身体的外見を用いる。他者との関わりは不適切なほど性的かつ誘惑的であり、挑発的です。
 過度に印象的だが内容のない話し方に特徴づけられる。芝居がかった態度と、誇張した感情表現をとります。
素早くはあるが、浅はかな行動パターンや感情表出であり、かんしゃくを起こしやすい。些細な出来事に過剰に反応する。
また、対人関係を実際以上に親密なものと捉える傾向にある。
 物事に取り組む姿勢が能動的であるところは反社会性パーソナリティ障害と同じですが、演技性パーソナリティ障害は他者との関わり方が限りなく他者に依存的です(反社会性は、一匹狼と言えるほど、周囲から独立しているという点で相違があります)。

●自己愛性パーソナリティ障害
 自己愛、という言葉へのイメージどのようなものがあるだろう。うぬぼれで高慢というイメージがあるかもしれない。しかし、適度な自己愛は「自分にはこれができる」「自分は認められている」といったように、自尊感情や自身の価値を見出すことができるので必要です。しかし、やはり強すぎると問題は出てきます。
 自己がとても重要であるという誇大なイメージを抱き、特別で独特であると信じきっている。尊大かつ傲慢な行動と態度をとり、自分と同じくらい高い地位の人たちにしか自分の特別さは理解されない、自分もまたそうした人たちとしか関係を持つべきでない、と信じて疑わないのです。自分が特別、と言っても極端にそれを誇示しようとはしません。反社会性などと比べても、その行動は受動的です。
 対人関係においても、相手を不当に利用しようとします。自分が一番、自分の成功のためなら、と他人を利用します。他人の気持ちを知ろうとせず、理解もできない、すなわち共感能力が明らかに欠如していて、他人への依存なんてものはありえません。 妄想性に似たところですが、他人が自分に嫉妬していると思い込みます。また、しばしば他人へ嫉妬するということもあります。

―C群―
●依存性パーソナリティ障害
 精神科外来において最も多く報告されているパーソナリティ障害の一つ、それがこの依存性パーソナリティ障害です。
 誰かに面倒を見てもらいたいという過剰な欲求があり、他人に対して従属的にしがみつく行動をとります。(境界性パーソナリティ障害とは違い)自分のことは自分ではどうにもできない、という不合理で過剰な考えから、一人になると不安感と無力感を覚え、他人からの分離に必要以上に恐怖を示します。他人からの支持をもらうためなら、不快なことまで自ら進んでやろうとする傾向にもあります。この時、相手に怒られる、懲罰を受ける、という理由から従属的になるのでは、依存性パーソナリティ障害とは言いません。あくまで、自分への支持や愛情を求めるがゆえに、失わないがために、従属的になった場合のみ、依存性パーソナリティ障害となるので、そこの判別が重要になります。
 また、何かを決めるのにも、他人からの助言や承認がなければ何もできず、重要なことをする際には他人に責任をとってもらおうとします。つまり、重大な決断ができないのです。この時にも、気力がないとか動機づけがなされないというよりは、自分に自信がないため、ということが依存性パーソナリティ障害だと判別する上で重要な点です。

●回避性パーソナリティ障害
 拒絶に対する過剰なまでの過敏性、他人から向けられる注釈は軽蔑や嘲笑に捉えてしまうという傾向を特徴とします。絶対に批判されないという強い保障や根拠がないと、新しい人間関係を持とうとしないというのも特徴のひとつです。
 そもそも回避行動と言うのは、内気さや孤独感、新しい状況に対する恐怖とともに幼児期や小児期に始まります。そして、小児期の内気さは一般的に起こり得るものであり、ほとんど年をとっていくことで自然と消えていきます。回避性パーソナリティ障害の人は、新しい人との社会的関係が特に重要になる青年期や成人期にますます内気になってしまい、回避的になっていくのです。
 ほとんど多くの回避性パーソナリティ障害者は守られた環境に置かれさえすれば、問題なく日常を過ごすことができます。しかし、支持する環境が崩壊すれば抑うつや不安があらわれ、怒り易くなります。

●強迫性パーソナリティ障害
 強迫症状を持つパーソナリティ障害――神経症水準でなく、境界例水準ということです。すなわち、感情や認知面、対人関係における極端な偏りがある、強迫性障害です(強迫性障害については、別項参照)。
物事の本来の趣旨を忘れ、細かいところにばかり目が行ってしまう。あまりの完全主義のために逆に課題を達成することができない(自分自身で課題達成を妨げてしまうわけです)。規則や順序、構成やスケジュールなどといった、秩序や完全主義、対人関係の統一性へのとらわれが非常に極端です。柔軟性や効率性といったものを犠牲にするのです。 他に特徴を挙げるとするなら、例えば仕事も全員が自分のやり方と同じようにやらない限り、任せるということをせずに自分でやろうとします。自分自身が持つ、過度に厳密な基準が満たされないので、誰かに任せることができませんし、結果まともに一つの計画を完遂することさえもできません。
またこの障害の人は、お金は将来の破局に備えて貯めておくべきもの、という考えを強く持っています。自分のためにも他人のためにも、けちなお金の使い方をします。無価値で使い古したものも、捨てられません(大事なものだから、などといった感傷的な意味があるからなどでもなく)。
以上のような、堅苦しさや頑固さを備え、日常生活や対人関係において極端に困難さを抱えていると強迫性パーソナリティ障害であると言えるのです。

パニック障害

パニック、というのはここではどう定義されているのかというと、「動悸・息切れ・めまい・冷や汗がでる・嘔吐感」といったことが発作的に生じることです。こうした発作が生じるものをパニック障害というのかというと、厳密にはそうではありません。

前述したような発作(パニック発作と言います)が生じ続けると、「また発作におそわれるかもしれない」という不安を抱えるようになるのです。こうした不安を「予期不安」と言います。この予期不安が一か月以上続いて、初めてパニック障害と診断されます。

さらに、予期不安がずっと続くとどうなるか。今度は「広場恐怖」という症状を起こすようになります。ここでいう広場というのは広い場所と言う意味ではありません。「ほかにも人がいて、逃げ出せないような場所」といった意味です。これは例を挙げると、電車の中とかエレベータの中とか、会議室や映画館などがあります。要するに場所の広さとか、人の数とかは関係ありません。この広場恐怖は臨場恐怖とか乗物恐怖とかのようにも呼ばれます。つまり特定の場所が怖くなってその場所にいくことができなくなったり、移動手段を利用できなくなったりしてしまうのです。パニック障害は、パニック発作、予期不安、広場恐怖と、どんどん症状が重くなり、最終的にはまともに外出もできなくなってしまうほどにもなりえます。

パラノイア

妄想(詳しくは統合失調症の項を参照)を呈する症状であり、偏執症とか妄想症などと訳されます。本来、妄想が最も目立つ疾患は、徐々に現実を理解・検討する力が崩れていきます。矛盾だらけで、論理性を欠き、要領を得ないような妄想を示して、不可解な行動をとるようになっていくのです。しかし、妄想や幻覚を呈しているにも拘らず、他の統合失調症に特徴的な症状(統合失調症についてはその項を参照)もまるで見られず、現実の検討能力も全く崩れていない――他者から見れば、まるで健康な人――状態の症例もあります。それを統合失調症と区別して、妄想性障害またはパラノイアと言います。

この人たちの持つ妄想は、迫害されている、愛されているといったものや、「自分は○○天皇の血を継いだものだ」といった誇大妄想などが混ざり合ったものが多く、それらには通常の統合失調症と違って矛盾が少ないのが特徴です。現実の検討能力が崩れていないので論理的で、体系だった考え方ができているのです。パラノイアは妄想や幻覚といった統合失調症に特徴的な症状を示してはいるのですが、言動に目立った異常性が見当たらないという点で異なっています。こういった症例はいわゆる「精神病」でなく「人格障害」と言われるものにカテゴライズされます(ちなみに精神病と人格障害の違いは、前述してきたように現実をしっかりと捉えることができているかいないか、という認識で構いません)。

ピアカウンセリング

ピア、というのは何か。辞書的な定義で言うと、「仲間」とか「対等」とかいう意味になります。ほかにも、「同じ障がいを持っている」、「生きてきた背景が同じである」といった様々な意味にとることができます。

すなわち、ピアカウンセリングというのは「専門家」であるカウンセラーと「非専門家」であるクライアントによって行われる通常のカウンセリング(説明上、こう表現していますが、あくまでカウンセラーとクライアントとの関係は「対等」であり「純粋」です。これはカウンセリングの基本原則です)とは違い、共通の経験や関心を持っている人たち同士が相互に支援しあう活動のことをいいます。

例えば、アルコール依存症の人たち同士で集まって、悩みや体験談を話し合い、傾聴し合い、そして情報交換を行うといったものがあります。同じ病気や疾患、障がいであるからこそ打ち明けられるものがありますし、共感しあえることもあります。「傾聴」と「情報交換」、そして「苦しみや辛さを共通体験すること」、この三つを同じ苦しみを持ち体験してきた人たち同士で行っていくこと。それがピアカウンセリングという活動の基本原則です。

ちなみに、ピアカウンセリングは、カウンセリングという名前が表すように、話される内容に対して互いに批判も助言もしません。やっても情報交換までです。ひたすら自分の体験や悩みを話すか、相手の体験や悩みを聞くか、にとどめます。同じ悩みや苦しみを持つ人たちが、前述したようなことを行っていき、相手が自分で自身の問題を解決できるように支援していくのです。その人に代わって問題を解決してあげるということは決して行わない、というのもピアカウンセリングの原則です。

PTSD

日本語では心的外傷後ストレス障害と訳されます。トラウマ、という言葉はよく聞くと思いますが、このトラウマとは、日々の生活の中で個人にとって大きなショックとなる出来事に遭遇することによってできた心理的な損傷のことを言い、時間が経過してもいやされることなく、さまざまな心理的機能の不全や精神的障害を引き起こすもので、「心的外傷」と訳されます。トラウマを引き起こす事象には災害、戦争、犯罪、暴力、交通事故、レイプ、虐待などがあります。そして、このトラウマが原因となって起きる障害にPTSD(外傷後ストレス障害―post-traumatic stress disorder)があるのです。

PTSDには三つの特徴的な症状があります。再体験、回避、過覚醒の三つです。
再体験というのは、トラウマとなった出来事の再体験や想起です。例えば、震災などを体験した後、体験したことが睡眠中に悪夢として体験されるといったことがあります(例:車に乗ってると急に道が柔らかくなり、落ちていく)。普段目覚めている時には、その時のことが思い出せないなど、どこか麻痺とも似ています。また、いきいきとその時体験した情景が浮かんでくるフラッシュバックなどもあります。

次に回避は、トラウマに関連することの回避をするのです。電車の事故に遭った人が、どこか異常なまでに駅に近づくことを避けたり、電車を見ないようにしたりするのです。

そして、過覚醒は持続的な過剰覚醒のことを言います。そもそもPTSDは、本人の生命や身体に重大な危害を与えたり、その脅威を深刻に体験することで生じるのです。つまり、災害ほど大きなものでなく、いじめなどでも本人が上記のように体験をすれば三つの症状は生じます。いじめられた体験をした人は「悪口を言われている」と訴えることが多いです(しかし、実際にそういったことはない、ということがほとんどです)。これはいわゆる、聴覚の過覚醒が起きているのです。教室の前で話される言葉―通常なら耳に入らない言葉―の中に、いじめ特有の言葉である「うざい」「きもい」「死ね」といった言葉が出ると選択的にその言葉だけが聞こえ、その上さらに自分に言われていると考えてしまうのです。

ちなみにDSM(DSM-Ⅳ-TRの項参照)において、以上のような症状がトラウマとなった出来事の30日以上(4週間)経ってから発現すればPTSDと診断されます(30日以内に症状が見られる場合は、ASDと呼ばれ、これは急性ストレス障害と訳されるものです)。また、前述したトラウマに関連する症状があまりにもひどく日常生活に支障をきたすほどになって、はじめて障害――すなわちPTSDと診断されるのです。

フロイト

心理学を学んでいなくても、フロイトと言う名前はどこかで聞いたことはあるかもしれません。もし聞いたことがなくても、「無意識」という言葉はどうでしょう。これにいたっては、心理学用語という認識がないくらい、一般に浸透している言葉だと思います。

フロイトは、この「無意識」の発見者にして提唱者。それだけでも、彼が心理学の世界において、どれほどの大家であるか想像できると思います。無意識の発見は、言い間違いやうっかりミスをすることなどからなされました。行きたくない仕事の会議に遅刻する、会議開始の挨拶で「会議を閉会します」と言い間違う。これらは「この会議がしたくない」「はやく終わりたい」という無意識の欲求があってのことだと、フロイトは考えたわけです。人は受け入れたくない気持ちを抑えつけ、意識したり直視することを避けます。しかし、その気持ちは無意識に存在してはいるので、ついつい言動に現れる、というのがフロイトの考えです。こうした意識と無意識を想定し、人の心を理解する理論が「精神分析」と呼ばれるもので、フロイトはその提唱者でもあります。

無意識という用語を中心に説明を行いましたが、彼が提唱した理論や用語は枚挙にいとまがありません。彼の多くの弟子たちもまた、精神分析の理論を発展させ、さらなる理論を生み出しています。

さらに余談ですが、20世紀の三大心理療法として「行動療法」、「来談者中心療法」というものにならんで、この精神分析を用いた「精神分析的心理療法」が挙げられます。そして、行動療法と来談者中心療法の二つは、フロイトの精神分析がもとになり生まれた経緯があります。つまり、フロイトや精神分析の理論がすべての根底にあり、それをまずおさえていないと心理療法やカウンセリングなんてものはできないといっても過言ではないほどなのです。

こうしたことからも、フロイトは心理学史に残るほどの著名人となっているのです。

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ま

燃えつき症候群

大きなスポーツ大会の出場を終えた人や、学生時代に打ち込んだ部活動から引退する人、入学や入社の試験などが終わった人などに見られる心理状態としてよく見られる、「打ち込むものがなくなったという何とも言えない、空虚感や虚脱感を覚えること」を燃え尽き症候群と一般的に認識されているように思いますが、そう一概には言えません。

燃え尽き症候群は、良い成績を残したにもかかわらず、次の段階で急に悪い結果に落ち込んだりした時に生じるものにも言いますし、この用語の提唱者は「自分が最善と思っていたやり方、生き方、対人関係が全くの期待外れに終わった時に、心身の疲労が生じたり、欲求不満の状態に陥ること」と言ってもいます。

何にしても、新たな目標を見つけることで、この症候群から脱却できるのかと断言はできません。定義にもよりますし、人にもよる、ということは認識しておく必要があります。

症状としては、極端に疲労している、不眠や頭痛・腰痛が見られます。他にも、不安感や焦燥、悲しみや抑うつ感、無力感といった精神的にも症状は見られます。

モデリング

「観察学習」と訳されます。

このモデリングが提唱されるまでは、人が新たなことに気づいたり、何かができるようになるためには、その行動を本人がとり、成功したり、失敗したりといったことを体験していくことが必要だと言われていました。しかし、何かを学ぶためにいちいち行動したり、失敗をしたりしていると時間もかかり、身がもたないのも事実です。このモデリングの理論では、モデル――手本となる人――を観察することで、自分が実際に行動をしたりする必要なく、学習がなされるということを言っています。

カウンセラーなどの治療をする人が、実際にやってみる(モデルになる)ことで、社会で受け入れられるような行動や話し方を、来談した方が学んでいくわけです。

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や

夢は決して心理学用語というわけではありません。しかし、夢の研究や理論は心理学の領域でもあります。
心理学、精神医学において夢に着眼した人物は多いですが、先駆けとなった人物にフロイトが挙げられるでしょう。

フロイトの見方で説明をすると、無意識に抑えつけられ普段は意識されないものが、眠りにつくことでその抑えが外れ、夢として見るというものです。また、フロイトは夢を、過去の出来事を表すものと考えました。過去の出来事から生じた欲求であったり葛藤であったりが、夢に現れるというものです。そもそも夢は、二つに分けられます。それが「潜在夢」と「顕在夢」です。潜在夢は、その内容が直視するには強烈な内容であり、無意識に追いやられたもので、これは見ることのないものです。対して、その内容が意識に受け入れられ、見ることができるもの――というより、象徴化されたり、意識によって柔らかい表現に書き換えられて、見ることができるようにされたもの――が顕在夢です(蛇が男性器の象徴というのは、一般書でよく言われています。ただし、この象徴は人によって異なるので、「蛇の夢=男性器に恐怖」と一対一で考えられるわけではありません)。心の病気、それによる身体の症状や感覚の麻痺などは、無意識においやられたものが形を変えて症状として表に出て来たもの(このあたりは、フロイトの項でも触れています)であり、治す方法はその無意識に追いやられたものを引き出して意識すればよい、と言うのがフロイトの理論であり、精神分析の治療方法です。無意識を意識化する方法としては、人を催眠状態におき、意識と無意識の間のフィルターを外して、無意識を表に引き出すことで行うのですが、この時、夢を用いて無意識へアクセスするという方法もとれます。顕在夢であらわれたものは、潜在夢の内容を象徴化したものなのですから、顕在夢を検証・分析することで潜在夢――すなわち無意識に至ることができるのです。

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ら

離人症

離人症とは正式名称では、離人性障害と言います。かつては、多重人格障害(別項参照)と合わせて離人神経症と呼ばれていました。解離性障害(別項参照)の一種です。

離人症は、一言で言うと、「自分が自分でない」「外界が本当に存在しているか分からない」といったものがある症状です。具体的な体験を挙げると、「疎外感」や「非現実感」、「ものを食べても味覚がない」といったものがあります。

自分という存在が、自分の精神や身体から離れて、自分をどこか傍観しているような感覚に陥り、しかもそれが何度も繰り返して起きると、離人症と診断されます。不思議なことに、この離人体験をしているとき、本人から現実を認識・検討する能力がなくなっているということもなく、むしろ冷静に自己を観察できているのです。

この離人症、実は思春期の正常な発達の過程において自我意識が目覚めてくるとともに、一過性のものとして、生じることがあります。もちろんのこと、これは病気ではありません(障害というのは、繰り返し生じて始めてそう診断されるのです)。

ロールプレイ

「役割演技」と訳されます。役になりきって演技をし、役の気持ちになりきることで新たなことに気づき、それを日常生活に活かしていきます。普段自分が取っている態度を、このロールプレイによって受ける側になってみる。そうすることで、自分が外からどう見えているのか、相手の気持ちになって理解することができます。また、人とのコミュニケーションづくりの練習にも最適です。ソーシャルスキルトレーニングで用いられる、技法のひとつです。

ロジャーズ

「カウンセリング」と「心理療法」、そもそもこの二つは同じものなのか、違うのか。そして違うとしたら、どう違うのか。実際、その線引きは難しく、ややこしいところなのです。ちなみに日本ではカウンセリングや心理療法といった心の援助を、まとめて「心理臨床」と呼んでいます。なぜこうした前置きをしたかと言うと、この「カウンセリング」という言葉を用いた代表格が、ここで紹介するロジャーズだからです。フロイトと違い、医師でなかったロジャーズですが、彼は独自の心理療法を発展させ、医師でない心理学者が心理療法を行う、という道を開拓しました。

ロジャーズは、精神分析、行動療法と並ぶ20世紀の三大心理療法のひとつ、来談者中心療法の創始者です。ただし、この来談者中心療法やその技法は「心理療法」ではなく、「カウンセリング」であるとロジャーズは言ったのです。
ここで、カウンセリングと心理療法との違いを述べるとすると、非指示であるかどうか、があげられます。こちらからアドバイスや指示を与えるのではなく、徹底的に話を聞き、来談者自身が己の問題について気づいていくことを目指すのが、カウンセリングです。この方法を用いた代表的なものが来談者中心療法であり、もともと「非指示的療法」なんて呼ばれてもいたのです。対して、心理療法というのは、前述した精神分析や行動療法が代表的であり、他にも認知行動療法、遊戯療法、芸術療法など数えきれないほどあります。これらは特定の心理学的な方法や理論に則って行う治療法であり、治療者側からやってもらうことを指示する場合もあります。

以上のように差異を挙げることもできますが、正直カウンセリングと心理療法はきっちりと分けられるものでなく、重なりあう部分も多いです。カウンセリングは「来談者の個人的な問題や願望に対して、対面して話を聞きながら、心理学の理論や技法を用いて、解決・改善をめざしていくもの」と定義されます。そして、心理療法とカウンセリングをまとめた表現である「心理臨床」の目的が、①心理的な原因からくる心や体の症状の治療、②来談者自身が問題を受け入れられるように促し、最終的に自身の問題は、自身で解決できるように成長の援助をするというもので、カウンセリングの目的に通じるところもあるのです。すなわち、心理療法とカウンセリングの違いは絶対的なものではなく、共通した理論と援助方法があるということです。ここでは、ロジャーズが自らの心理療法を「カウンセリング」と表現した、という認識をすれば問題はないと言えます。

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わ

ワトソン

ワトソンについては、正直フロイトほど有名ではないかもしれません。しかし、彼もまた心理療法の一つ、行動療法が誕生するまでに一役買った、心理学を学ぶものならば一度は耳にする著名な心理学者です(行動療法については、か行を参照)。
療法をつくったというよりも、それのもとになる理論を、実験などを通して発見、提唱した人物です。彼の行った有名な実験に「アルバート坊やの実験」というものがあります。アルバートというのは、この実験時にはわずか生後8か月だった被検者である赤ん坊の名前です。

赤ん坊というものは、大きな音に怖がります。そして、ふさふさした毛のうさぎなら、もちろん怖がりません。ワトソンの行った実験は、アルバートがうさぎと遊んでいるときに大きな音をならし、そしてそれを何度も繰り返すことでした。その結果、アルバートはうさぎを見ただけでびくびくするようになった、というのが「アルバート坊やの実験」です。しかもアルバートは、それ以降、うさぎだけでなく、うさぎに似た白いもの(白いぬいぐるみ、白いひげの人物)に対しても同じように怖がるようになったのです。

アルバートにとってはいい迷惑な実験ですが、これが学習理論や行動療法など後の心理学に大きな貢献をしているのも事実です。(実験後にこの白いものへの恐怖をきちんとなおすという条件で、ワトソンは実験を行いました。しかし肝心のアルバートがこの実験のあと、通っていた託児所から姿を消した、というオチがこの話にはあったりします。)
「アルバート坊やの実験」は「パブロフの犬の実験」(か行、行動療法参照)と酷似していると思うかもしれません。実は、ワトソンのこの実験は「パブロフの犬」の実験を行った、パブロフの考え方を応用して、犬ではなく人間の子どもに用いたものなのです。ワトソンは自分の理論に、うまくパブロフの理論を取り入れた、というわけです。(ちなみに、アルバート坊やのような状態になった場合には、アルバートに対してうさぎ―白いもの―を見せ続けることで改善します。要するに、大きな音とうさぎとがなんら関連のないものだということを、学習させるわけです。)

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